東京23区某所――。「今どきのマンションは高い。自宅が高く売れるといいな」。来年70歳を迎える男性は、住み慣れた木造2階建ての住宅を手放してマンションに住み替えることを決断した。古希に新たな生活を始めたいと意気込む。水産系の専門商社で40年以上サラリーマンとして東京都心に通勤し、2人の子供も育て上げて今は夫婦2人で暮らすが、「これから年齢を重ねていくと2階に行く急な階段もつらい。フラットな空間で余生を過ごしたいので、築50年の自宅を売却して、そのお金でマンションを買うことにした。子供に資産としても残せるからね」と話す。
売り出し価格は強気
もちろん、半世紀が経過する築古木造住宅をそのまま実需として購入してくれる人が現われるとは想定していない。土地を購入して自宅を建てたい個人や、寮や賃貸住宅を計画する法人に購入してもらい、その売却資金でマンションを購入したい考えだという。最寄り駅はJRと地下鉄の複数路線が利用できて最も近い駅までは徒歩4~5分だ。商業施設やスーパー、病院、行政機関なども近く立地は申し分ない。
売れる土地であることは間違いない。だが専属専任契約を結んだ開発大手系列の仲介会社から1週間に一度報告が来るものの、自社サイト、レインズ、不動産情報サイトでの物件登録で、閲覧数に比して電話・来店・メールといった反響は乏しく、実際に成約に結び付くような反応が見られない。仲介担当者は、「売り出し価格が相場とかけ離れ過ぎている」とは言い切らないまでも言葉の端々や声のトーン、顔の表情から「売り値を下げたほうがよいのでは……」との雰囲気を醸し出し始めた。売りと買いの価格目線が合っていない。
狼チラシで契約解除
しかし、売主は引かない。「新築分譲マンションが8000万円、9000万円が珍しくないのに、地ベタの価値をもっと見てもらってよいはずだ」と強調する。つまり、マンションの敷地は入居世帯数で等分するし、土地は建物と違って劣化しないのにマンション1戸の価格に負けていることに納得していない。希望の売り値は億を超え、査定価格から約2割高く設定している。住宅ローンが組める年齢ではないだけに、自宅をなるべく高値で売って高騰するマンション価格に備えたい気持ちがにじみ出ている。
「この地域で○□△×万円までの予算で住宅を探しています。買主は企業です、資金力のある個人です」といったチラシが家のポストによく投函される話を持ち出してみると、仲介担当者は、「いわゆる(業界用語で)オオカミ(狼)チラシってやつですね」と、そのチラシが顧客の興味を引くための集客ツールのたぐいだと遠回しに説明。現実路線を促したつもりだったが、その男性もチラシの意味合いは想定できていたとはいえ、この一言が気に入らなかった。「不動産会社のことが信じられない」と疑心暗鬼を深めさせる結果を招いて、その仲介会社とは専属専任契約の期限が迫ってきたところで契約解除にすることを決めた。
リプレイスで動き出す
仕切り直しで仲介会社を選び直したところ、アパート経営を計画する一般事業法人が興味を示してアプローチしてきた。仲介会社からは、「その事業法人は2棟目を計画しています。銀行と信用金庫のどちらかから近く融資が決定する予定です」との報告を受け、「いよいよ動き出す」と売主は住み替え先の分譲マンション探しを始めている。
新築マンションのモデルルームと中古のタワーマンションを見学すると、いずれの販売現場も「よい物件はすぐに決まっていきます」と口をそろえる。モデルルームの担当者は「日銀は金利を上げられません。低金利が続くでしょうね」と述べ、仲介担当者は「(自宅売却でキャッシュ買いのため)お客様は一番手ではありますが、他に2~3人検討者がいますので……」と購買意欲を刺激する。
購入検討でお眼鏡にかなったマンションが見つかったら次の課題への心配をしなければならない。新築は竣工時期、中古は居住中の場合は引き渡しを受ける時期。これにより自宅の売却・引き渡しの時期をいつにすべきかだが、いずれのケースも一時的に〝賃貸への避難〟を余儀なくされることも考えられる。
自宅売却が決まったわけではないが、仲介会社の担当者は住み替え先の候補物件の情報収集を本格化している。この結末はまだ出ていない。(中野淳)